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慰霊巡拝

パプアニューギニア、ソロモン諸島は太平洋戦争中、日本軍が米国を中心とする連合軍と激しい戦いを繰り広げた場所で、東部ニューギニアで13~15万人、ソロモンで約2万人の日本兵が亡くなったといわれています。 日本国内では、もう第2次世界大戦の痕跡はほとんど見ることができなくなっていますが、パプアニューギニアでは各所でその生々しい爪痕を見ることができます。

太平洋戦争時のパプアニューギニアでの日本軍の活動

ラバウル南太平洋戦没者慰霊の碑

ラバウル南太平洋戦没者慰霊の碑

太平洋戦争勃発と日本軍のニューギニアへの侵攻

1941年12月、日本は東南アジア、太平洋地域で軍事行動を開始し真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入してゆきます。 米国からの最後通牒(ハルノート)に対し、日本政府は1941年12月1日、御前会議において対米・英・蘭への開戦を決議します。 12月4日、日本は12月8日決行の真珠湾攻撃の4日前、アメリカ領のグアム島とオーストラリア領のニューブリテン島ラバウルを占領するために、海軍の第4艦隊と陸軍の南海支隊を小笠原の母島港から出港させます。 1942年1月14日、グアム島の占領に成功した南海支隊は輸送船9隻に分乗し、赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴、4隻の空母に護衛されながら、ニューブリテン島のラバウル占領を目指してグァムを出港します。 この船団のラバウル上陸に先駆けて、2月20日、各空母から飛び立った第1および第5航空戦隊108機がラバウルを攻撃、翌1月21日には、ニューギニア島東海岸のレイ、サラモア、マダンならびにニューアイルランド島のケビエンを攻撃、1月22日にも再びラバウルに攻撃を加え、上陸の援護を行い、1月23日、南海支隊はラバウル上陸を果たします。 2月3日、海軍航空隊がラバウルを拠点にポートモレスビーへの攻撃を開始し、3月に入ると陸軍の南海支隊もラエ、サラモアに侵攻、海軍もブーゲンビル島、ブカ島、ソロモン諸島のショートランド島へ侵攻しこれを占領しました。

ソロモン諸島ホニアラの川口支隊慰霊碑

ソロモン諸島ホニアラの川口支隊慰霊碑

日本軍のパプアニューギニアへの本格的な侵攻開始

この頃、南太平洋地域に更なる陸軍兵力を注ぐことについては海軍と陸軍との間で議論があったようですが、結果、陸軍は本格的な派兵を決定します。 1942年5月、陸軍は海軍と協力して南太平洋における米・豪連絡線上の要衝であるニューカレドニア、フィージー、サモア及びニューギニア島ポートモレスビーを攻略するFS作戦のために、第八方面軍の中に第17軍を編成しました。  この第17軍には、川口支隊(フィージー諸島担当)、東支隊(サモア諸島担当)、青葉支隊(ポートモレスビー担当)、南海支隊(ニューカレドニア担当)などの支隊が組み込まれ、7月1日作戦開始と決まりました。 一方、海軍は同じ5月、連合軍からの攻撃を防ぐ日本軍の最前線基地としてソロモン諸島を占領すべく、その第一陣として、呉第3特別陸戦隊と横浜航空隊をソロモン諸島のツラギ島に派遣します。さらに陸軍部隊の輸送の安全を確保するため、6月にはガダルカナル島のホニアラにルンガ飛行場の建設を開始しました。

アロタウの海辺に立つ太平洋戦争記念碑

アロタウの海辺に立つ太平洋戦争記念碑

珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦での日本軍の損害

続いてラバウルに駐留する日本陸海軍は、米豪連合軍司令部があるポートモレスビーに艦艇による攻撃を加えるべく出航します(MO作戦)が、米軍はその情報を事前に入手、フレッチャー少将率いる連合軍機動部隊は、珊瑚海(ミルンベイ沖)でこの日本艦隊を待ち伏せし、5月7日、8日の2日間に渡る空母同士の戦闘は連合軍が空母レキシントンを、日本は空母「翔鳳」を失い、この作戦は失敗に終わりました(珊瑚海海戦)。 そして6月には、日本海軍は前線基地確保のため、ミッドウェイ島へ総攻撃を仕掛けましたが、僅か2日間で赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻を失う損害を受けました(ミッドウェイ海戦)。

ココダトレイル慰霊碑

ココダトレイル慰霊碑

ココダの悲劇

フィリピンから退避して起死回生を誓ったマッカーサー元帥率いる連合軍が駐留するポートモレスビーを攻撃しようとしていた日本軍は、ミッドウェイ海戦の大敗により1942年7月1日決行予定であった海路でのポートモレスビー攻撃(FS作戦)を断念し、陸路で攻撃することを検討(リ号研究)していました。 このために7月21日にラバウルを出港した南海支隊および使役のために徴用された多くのニューギニア人は、ニューギニア島北岸のブナ(現在のポポンデッタ)付近のパサブアに上陸し、陸路でココダを通りオーエンスタンレー山脈を越えニューギニア島南岸のポートモレスビーを攻撃する難コースの調査を始めようとしていました。しかし大本営・辻正信中佐は即時実行を指示、これを受けて第17軍司令官・百武春吉中将は事前調査なく、この難コースによるポートモレスビー攻撃を実行します。激しい戦いとなったココダでの戦闘を経て、今一歩でポートモレスビーへ突入するところまで進んだ時、突然、今度は作戦中止・撤退命令が下され、部隊は退却します。大挙して押し寄せる豪州軍と米軍部隊の追い討ちにより、このブナ、ギルワ、ココダで戦っていた南海支隊をはじめとする日本兵は、ほぼ全滅してしまいました(ココダの悲劇)。この日本軍の切り開いたルートは、「ココダ・トレール」と名付けられたトレッキングルートとして残り、現在でもオーストラリア人を中心に多くのトレッカーが踏破しています。

トウキョウベイ駆逐艦沈船

ソロモン諸島トウキョウベイ駆逐艦沈船

ガダルカナル島(ソロモン諸島)の激戦と日本軍の撤退

1942年8月、日本軍の予想に反して、米軍第一海兵師団を中心とした15,000名の連合軍がガダルカナル島に上陸、完成したばかりのルンガ飛行場(後の連合軍ヘンダーソン空港)、ツラギ島を日本軍から奪いました。これに対し日本軍第17軍は、ミッドウェイ海戦の敗北で行き場を失いラバウルに駐留していた一木支隊を、直ちにガダルカナル島に派兵しますが、全滅してしまいます。続いて上陸した川口支隊および第二師団の攻撃も失敗に終わり、この戦いで戦艦や航空機も次々と失い、制空権、制海権の両面を剥奪され、日本軍は日本本土からの弾薬、物資、糧秣の補給路を断たれてしまいます。特に食料補給がなくなったガダルカナル島は、生存することが危ぶまれる「餓島」と言われるほど大変な状況であったといわれます。そのため日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定し、日本陸海軍の戦闘機によるガダルカナル島連合軍基地への連日昼夜の攻撃を繰り返しながら、1943年2月1日、第1次の撤退作戦が展開され、5,400名の日本兵が無事ショートランド島へ撤退しました。2月4日には第2次の撤退が完了し5,000名弱の兵士がショートランド島やブーゲンビル島ブインに戻りました。第3次の撤退は2月7日に決行され、さらに2,400名の日本兵がブーゲンビル島に戻りました。しかし、海軍陸戦隊や設営部隊などは、ニュージョージア諸島のムンダやコロンバンガラに残り、連合軍との戦いを続けてゆくことになります。このガダルカナル島における4ヶ月間の戦いでは、派兵された約3万人の日本兵のうち、2万人以上が亡くなりました。

マダンに残る旧日本軍爆撃機の残骸

マダンに残る旧日本軍爆撃機の残骸

日本軍の新戦力投入とダンピールの悲劇

1942年11月、日本軍はニューギニアへの更なる派兵を決断し、新たに第18軍(安達二十三中将軍司令官)が編成され、東部ニューギニア方面の侵攻を担当します。一方第17軍は主として、ニューブリテン島、ブカ島、ブーゲンビル島及びショートランド島などの守備を担うことになります。 この第18軍のうち第20師団、第41師団は1943年1月8日に釜山港を出港し、1月21日、ウエワクに上陸、マダンへ向かいます。一方ラバウルに上陸していた同軍第51師団は、レイ、サラモアを目指し駆逐艦8隻の護衛と共にラバウルを出港しますが、3月3日ニューブリテン島ツルブ沖で敵機の攻撃を受け、続いてニューブリテン島西端とニューギニア島間のダンピール海峡で連合軍爆撃機の大編隊の攻撃に遭い、輸送船7隻、3隻の駆逐艦が撃沈され約3,300名の日本兵が亡くなり、生き残ったのは僅か800名足らずでした(ビスマルク海海戦-ダンピールの悲劇)。

山本長官機の尾翼部分

アク村の山本長官機の尾翼部分

山本五十六連合艦隊司令長官の死

トラック島で海軍の指揮をしていた連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、ソロモン諸島、東部ニューギニア方面の相次ぐ日本軍の敗北を受けて1943年4月3日、トラック島を出発しラバウルへ向かいました。 ラバウル滞在中、山本五十六大将は美しいシンプソン湾を見下ろすナマヌラの丘の高台にある官邸に起居していましたが、当時この丘はその由来から官邸山と呼ばれていました。山本長官の一行は、ガダルカナル島から引き上げブーゲンビル島のブインに駐留していた第17軍司令部を訪問するため、1943年4月18日の午前6時、日本海軍の一式陸攻2機と護衛の戦闘機6機でラバウル東飛行場を飛び立ちました。そして午前7時40分頃、ブーゲンビル島バラレ手前のブイン近くで連合軍のロッキードP38戦闘機20機以上の待ち伏せ攻撃を受け、長官機はブイン近くのアク村山中に墜落し、山本五十六長官は亡くなりました。山本長官が搭乗していたこの一式陸攻は、今でも墜落現場に横たわっており多くの方がお参りに訪れています。

ウエワクの慰霊碑

ウエワクの慰霊碑

連合軍の反撃

1943年6月に入ると連合軍は、日本軍に対して圧倒的な量の兵器・兵力を投入してニューギニア島レイ近郊のナッソー湾、フォーン半島クレチン岬のフィンシュハーヘンに上陸、応戦したラエ、サラモアの日本軍は壊滅的な打撃を受けます。同時にウエワクでも主に連合軍の航空機による攻撃で大損害を受けウエワク方面でも完全に制空権を奪われてしまいます。 1943年9月、連合軍は大部隊をもってソロモン諸島のガダルカナル島、ニュージョージア島のムンダ、コロンバンガラ島まで侵攻し、日本軍は南の最前線基地をブーゲンビル島にまで押し戻されます。 連合軍は12月、ニューブリテン島の最南端グロスター岬に上陸し、北端のラバウルを狙いますが、日本軍の基幹基地であるラバウルの守りは堅く、連合軍はラバウルへの攻撃を一時中止して、1944年1月、マヌス島に攻撃を仕掛け、これを占領しました。

ブーゲンビル島ブイン海岸の高射砲跡

ブーゲンビル島ブイン海岸の高射砲跡

日本軍ブーゲンビル島を再防備

日本軍最南の前線基地であるブーゲンビル島は、南方方面司令部ラバウルを守る最後の砦として、死守しなければならない要衝でした。しかしソロモン諸島方面から撤退してきた部隊だけでなくブーゲンビル島と隣のブカ島に駐留していた陸軍部隊も機能を失いつつある状況であったため、1944年に入り、日本軍は残存部隊を再編し、陸軍がブーゲンビル島東海岸のヌマヌマ、キエタ、西海岸のタロキナ、及びブカ島を守備し、海軍部隊がブーゲンビル島南端ブインの防備を担当します。 一方で連合軍はトラック島への攻撃を強化し、これを占拠します。その結果ラバウルは、日本本土からの兵站を断たれ、北からも連合軍に睨まれることになり孤立してゆきます。

18軍司令部跡からマダン湾を望む

18軍司令部跡からマダン湾を望む

第18軍の戦い

マダンの町を見下ろすアムロン高地に司令部をおく第18軍を構成する第51・第20・第41の3個師団はマダン集結後、1943年9月15日、フィンシュハーフェン作戦のために海沿いに400キロ以上の道程を徒歩で東へ進軍し、フィンシュハーフェン付近で戦闘が始まります。連合軍の圧倒的な武器と兵力の前に日本軍は徐々に後退し、3ヶ月に及ぶ戦いの後、翌1944年1月ガリで撤退します(ガリ転進)。その後、連合軍の追撃を避けるため多くの日本軍兵士は険しい山岳地帯を西に向かい、多くの戦死者と餓死者を出しながらもハンサに戻ります。1944年2月、第八方面軍司令官、今村均大将の指揮下にあったこの第18軍は、第二方面軍司令官、阿南惟幾大将の指揮下に移り、5月アイタペ、ホーランジャに上陸した連合軍を攻撃するために今度は西へ170キロのブ-ツへ向かい、アイタペで7月に連合軍と衝突します。このアイタペ作戦では特に坂東川上流アフア陣地攻撃での戦いがとくに激しかったようでした。 日々増強される連合軍に対し、日本軍は食糧、弾丸も底をつき体力消耗も激しい状況で、第18軍の安達軍司令官は退却を命じ、8月ウエワクに向かって行軍します。各部隊は、ヤカムルやマルジップなどに集結し、ウエワク、ブーツ及び山南地区へ移動、海軍部隊はウェワク沖合いのカイリル島、ムッシュ島を確保し、全く補給のなくなった各部隊は、限定的な戦闘を繰り返しながら自給自足の生活をして生きながらえます。 この生活は1945年8月の終戦まで続き、この間も飢えや病気などで多くの日本兵が亡くなりました。 終戦後、生き残った日本兵は武装解除の後、ウエワク沖合いのムッシュ島に収容され、順次日本へ帰国してゆきました。

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